🌱 ECHO SERIES 🌿
〜 E-10 〜

『ロボットケアの家族』

🌱 プロローグ:夜の足音
佐久間由紀は、四十五歳。仕事と家の往復の間に、母の介護が挟まっている。母は七十八歳。軽い認知症があり、夜になると家の中を歩き回る。玄関の鍵が開く音に由紀は跳ね起き、台所の灯りに吸い寄せられる母の背中を静かに追った。
💬 「トイレに行こうと思って」
母はそう言う。だがトイレの場所は分かっているのに、寝室に戻れない。由紀は笑って手を引く。笑えるのは、まだ眠れる余裕がある夜だけだった。
服薬は日付の小さな箱に分けた。だが、朝起きると空のはずの箱が残っていることがある。飲んだのか、飲んでいないのか。由紀は自分がどちらを信じるべきか分からなくなった。仕事中も気が散り、上司の話が遠くなる。
💬 「ちゃんとやれてないのは、私の努力が足りないからだ」
由紀は自分に言い聞かせた。けれど、疲れは体に積み重なり、眠りは薄くなっていった。
🌱 第一章:頼ることへの抵抗
施設の相談窓口に行くと、空きはありませんと言われた。「待機で一年以上」と書かれた紙が机の上に置かれる。ケアマネージャーは優しい顔で「在宅でもう少し頑張れますか」と言った。
周囲は「まだお母さん元気そうだよ」と言う。そう言われるたびに、由紀は「自分が弱いから疲れるのだ」と思った。母が「迷惑はかけない」と何度も口にしたことが、心の奥で釘のように残っていた。
そんな時、地域の支援窓口で介護ロボットの案内があった。見守り、服薬、夜間の移動補助。パンフレットには優しい色の機械が写っている。だが由紀は、その写真に自分が頼る姿を重ねられなかった。
💬 「人の代わりにはなりません。でも、“間”は埋められます」
担当者の言葉は丁寧だった。けれど、由紀は「間」を埋めることが逃げに見えた。母と向き合うべき時間を、機械に渡すようで怖かった。
🌱 第二章:小さな導入
夜中に母が外へ出かけそうになった日、由紀は限界を知った。玄関で靴を履こうとする母の手を止めたとき、自分の手が震えているのが分かった。母は驚いた顔をした。由紀は「ごめん」と言いながら、頭を下げた。
翌週、由紀は見守り機能だけを試すことにした。天井に設置されたセンサーが、夜間の動きを知らせる。服薬支援はまだ使わず、まずは夜の負担を減らす。小さな導入だ。責任を手放すのではなく、続けるための調整だと自分に言い聞かせた。
最初の夜は、二十二時を過ぎた頃だった。由紀は時計を見ないようにしていた。この時間を意識すると、夜が始まってしまうからだ。母はもう寝ているはずだと、静かな期待を押し込めていた。
💬 「夜間見守りモードを開始します」
起動音は小さく、声は抑揚がない。それなのに由紀は、一瞬、家の中を誰かに預けたような気がした。説明書どおりのはずなのに、距離の測り方が分からない。
廊下の先で扉が開く音がした。母が起きたのだと分かった瞬間、ロボットの声が先に届いた。
💬 「佐久間様、夜間です。お手洗いですか」
💬 「……あんた、誰?」
母の声は戸惑いながらも拒否ではなかった。由紀は廊下の影で立ち止まり、そのやり取りを聞いていた。呼ばれなかったことに理由はない。ただ順番が違っただけだ。それだけで、胸の奥が微かに揺れた。
ロボットは母の歩行補助を始めた。由紀は後ろに立つ。体重を支える必要がない。それだけで腰が救われる。助かったと思う。けれど、同時に自分の手がどこにも触れていないことに気づく。安堵と、役割が消える感覚が一緒に来た。
母は無事に布団へ戻った。ロボットは淡々と「任務を完了しました」と告げる。問題は起きなかった。それが、問題だった。由紀は布団に入ったまま、天井と廊下の静けさを交互に感じた。眠りは来ない。
センサーの通知がもう一度来たらどうしよう。来なかったらどうしよう。その両方を考える夜が続く。
服薬支援は一週間後に導入した。音声が「薬の時間です」と伝えると、母は「あなたの声じゃないの」と不満げに言った。由紀は「私もいるよ」と答えた。機械の声が、由紀の声を奪うわけではない。由紀は、そんな当たり前にやっと気づいた。
🌱 第三章:関係の再設計
見守りと服薬支援があることで、由紀は夜に眠れる日が増えた。眠れるという事実が、気持ちを支えた。朝、母の顔を見ても焦らなくなった。焦りが減ると、母の言葉が少しだけ届くようになった。
💬 「昔はね、あなたが帰ってくるのを待ってたの」
母はある日、そう言った。由紀は「仕事が忙しくて」と返し、すぐに言葉を止めた。今は母の記憶が揺らぎ、時間の順番が違っていることがある。それでも「待ってた」という言葉は、今の由紀に届いていた。
ロボットは、母の代わりではない。由紀の代わりでもない。ただ、由紀が母と向き合う余白を作った。由紀は、母の好物の煮物を作る時間が久しぶりに取れた。母は「味が変わらないね」と笑った。由紀はその笑顔に、助けを受け入れた自分を許せた。
日中の静かな時間、母はロボットに用件だけを伝える。「トイレ」「時間」「水」。名前は呼ばない。感情を要求しない相手として、母はロボットを受け入れていた。由紀は、そのやり取りを見ながら声をかける理由を探していた。世話をする側とされる側だった関係は、役割が変質していた。距離ができたのではない。近づく理由が薄くなっていたのだと気づく。
由紀にとってロボットは、助けられているのに感謝しきれない存在だった。性能への不満ではない。自分がやっていたことを、そのまま引き継いでしまったことへの、境界の不安だった。由紀はようやく、これは三人でいるのではなく、二つの関係が並んでいるだけなのだと知った。
地域の支援窓口にも相談を続けた。訪問介護の回数を少し増やし、ロボットの記録を共有した。機械が残したログは、由紀の記憶の補助にもなった。人と機械が役割を分けることで、介護は「一人の責任」から少しだけ遠ざかった。
🌿 エピローグ:助けを手放さない
介護は終わらない。だからこそ、続けられる形が必要だ。由紀は、ロボットを「助け」と言えるようになった。助けは甘えではない。助けは、続けるための土台だ。
母の夜の足音は、以前より穏やかになった。由紀は夜に目を閉じ、朝に目を開ける。その当たり前が戻ってくると、母にかける言葉も増えていく。
もし、あなたの周りに介護で疲れている人がいるなら、相談先は一つではない。地域の窓口、支援制度、家族の分担。機械の力も、人の力も、どちらかではなく両方で支える道がある。
その夜、由紀は久しぶりに、目覚ましをかけずに布団に入った。廊下の先では、ロボットが静かに待機している。母の呼吸も、今日は乱れていない。
何かが解決したわけではない。明日も同じことが続くのだと、由紀はわかっている。
それでも、これは手放したのではなく、間に置いたのだと、初めて思えた。由紀は目を閉じ、誰の声も聞かずに、眠りに入った。
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テクノロジーと人が響き合う未来へ…